日本放送作家協会主催 作家養成スクール
祖父は明治末期生まれの元海軍の軍人だ。
私が小さい頃から、「太陽と北極星の正確な天測が無事に航海を続ける基本だ。夜間航海では北極星を見つけろ。それを見つければ、自分のいる場所はおおよそ分かる」とことあるごとに言っては私を海に連れ出して、自分たちの乗ったヨットの位置を天測させられた。
私が十六歳になった時、「お前も大人の仲間入りをしたのだから、自分の北極星を早く見つけろ。自分の中に基軸となる北極星をしっかり持て」ピシリと祖父は私に告げた。
自分の人生で、進むべき道に悩んだ時には、祖父の言葉を思い出し、自分の北極星の位置を確認し、先に進むべき海路——とても険しい海路で難破しそうになったことも多々あったけれど――を決めてきた。
この頑固な祖父の楽しみは、寝入り前に飲む一杯の冷や酒だ。長年愛用してきた——母によるとどうも祖母が贈ったものらしい—―伊万里焼の陶製グラスに、お気に入りの冷たい日本酒を並々と注ぎ入れ、嫉妬するほど美しい立ち姿で、一気にツゥーと飲み干して、
「ああ、うまい。どうもありがとさん」と言って布団に入る。
私は東京の大学への進学と共に実家を離れ、そのまま就職、結婚して、実家に帰ることは年に二~三回程度だ。
ある年のお盆に帰省した際、祖母が寝る前の酒を一杯飲んだ後、そうか、めずらしいな、お前も今日は飲むのか、と何やら独り言を言って、愛用の伊万里の陶製グラスに半分ほど冷や酒を注いで、テーブルの上に置き、しばらくそのグラスを眺めた後、
おいしいか? それは、よかった、 と嬉しそうに言って布団に入った。
「じいさま、ちょっとぼけてきたのかな?」と私が言うと、「もうすぐ九十歳だからね」と母親が笑った。
次の朝、昨夜テーブルに置いた陶製グラスの中の酒は無くなっていた。
ああ、そうか、昨夜祖父は亡くなった祖母とお酒を飲んでいたのか、と一つの陶製グラスで仲良くお酒を飲んでいるふたりの姿が鮮明に浮かび上がった。
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