日本放送作家協会主催 作家養成スクール
アセチレンの匂い、オレンジ色の炎がごうごうと音をたてた。願い事が書かれたランタンが炎を包んで青空高く上がって行く。
ここは台北市からバスで一時間ほどのところにある十分(じゅうふん)。
島川久男は勤続二十年の永年祝いとして旅行チケットをもらった。夫婦ペアーチケットである。一緒に来ているのは水沢ひとみ。同棲して六年になるが籍は入れていない。人事担当者は入籍している人じゃないとチケットは渡せないと言ったが、すぐに入籍予定と強引に旅券をもらった。ひとみは三十八歳で子供が欲しいと言っている。久男も父が亡くなった四十二歳になった。父が亡くなった時、母は三十六歳、久男は十歳、妹は八歳だった。
父は台湾出張中自動車事故を起こした。ただその亡くなり方がその後ずっと母を苦しめた。事故死した父には若い女性の同乗者がいたのだ。父との関係は分からなかったが、親戚からは色々な事を言われた。おとなしい母が紹興酒の壜を庭の石に叩き付けて割った。久男はその光景が忘れられず大人になってからも紹興酒は飲まなかった。久男がひとみとの入籍をためらっているのも父の影響があるのかも知れない。永年旅行を台湾にしたのは、人生を新しく踏み出したかったからである。
天燈は赤いビニールに墨汁で願い事を書く。ペアーの二人は四面に二面ずつ書くのだが奮発して二つ買い、四面を一人で書いた。久男は四面の一番先に島川好男のバカヤロウ、次は母さんに謝れ、その次は妹の清江にあやまれと書きなぐった。あとの一面が空白だった。空白を見ていると涙が溢れてきた。そして自分の頭になかった文字が出てきた。おやじ安らかに眠ってくれ。書き終えて天燈を放すと、心がすっきりした。涙と共に心の垢が流されたと思った。
近くの店で紹興酒を飲んだ。こんなに美味しいものかと久男は初めて思った。ひとみに「なんて書いたの」と聞かれた。
「うん、へんなこと書いちゃった」
「わたしは、家族が増えますようにって」
大空にはたくさんの願いをのせて天燈がぐんぐん上がっている。
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