受講生の作品

後押し駆け落ち

河内恵津子
大学院コース
1期生(2015年度)
性別:女性

第4回東京作家大学修了制作最優秀作品

微かな人の気配に目が覚めた。

辺りはまだ薄暗い。何時だ、時計を見ようと顔だけを動かすと、隣に妻の蒲団がない。

もう起きたのか? いや、このところ、もう少し、もう少しと蒲団の中で燻っていた。こんな時間に起きるとは思えない。もしかしたら、今日……。

妻が家を出ようとしている事は、薄々気付いていた。それまでタンスの上で埃を被っていたスーツケースが、綺麗になって押し入れの隅に置かれていた。隠したつもりなのか、隠す気などないのか、気付かない方がおかしい場所だ。中には身の回りの物が詰め込まれ準備万端といったところだ。

こんな時間にこそこそと出る支度か、一人ではないなと思う。一人なら昼間、堂々と出ればいい。町で暮らしたいという妻に出たいなら出ればいい。止める気はないことを帰省した時から話してある。一緒に出る相手は妻のパート先の惣菜の店の店長か。一ヶ月前辺りから家の路地先まで男の車で送って貰っていた。顔を見たわけではないが、車の脇腹に店の名前らしき文字が並んでいた。外灯の灯りだけでははっきりとは読み取れない。だが書かれてあるだろう字は推測できた。

『惣菜の店・浜田屋』だ。

浜田屋のことは知らないわけではない。町の惣菜屋で、老いた両親の跡を長男が受け継いだ。妻と三人の子ども、最近は都会に行っていた弟が心の病だとかで戻って来ている。大家族を抱え、店を一人で切り盛りしていた。

そんな男との不倫。だが、俺は止めろとは言わなかった。そのうち不貞を働いたと強引に離婚することも、叩き出すこともできる。

それが勝手に出て行ってくれるとは願ったり叶ったりだ。もううんざりしていた。

些細な事で始まる母との諍い、村の人の目は何かと我が家の方を向き、針の穴ほどのことも噂になる。最近では女房の稼ぎで食っているとは良い身分だと、秀美のせいで外にも出難くなった。あげく時々売れ残りのコロッケを持ち返った。最初はただで食えると気楽に考えていた。だが、母は秀美の持ち返るコロッケを当てにし、帰るなり貪り付くのを見るのは情けなかった。俺には秀美の持ち返るコロッケは妻に養われているという屈辱の味に変わっていった。

もともと小さな山村に馴染めるような女ではなかった。生まれも育ちも東京だ。高いビルより山や農耕地の方が目立つが、それでも住所は東京都だ。そうとわかっていても、父親が肺がんで、余命半年持つかどうかの宣告を受け、戻って来てくれと、母親に泣いてせがまれれば嫌だとは言えなかった。

帰ると決めてからも大変だった。田舎暮らしを嫌う秀美との話し合いはどこまでも平行線で、最後には離婚しようとまでなったが、妻はそれも嫌がった。誰かの傍にいないと寂しいと。誰かって、つまり誰でもいいということか。秀美のその言葉で俺の気持ちは冷えた。俺は無視して帰る準備を進めた。

結局、秀美は渋々着いて来た。が、結果はこれだ。ただ父の看病だけは頑張ってくれた。

半年の余命が、わずか三カ月で亡くなってしまったが、良い嫁が来てくれたと思ったまま逝ってくれたのがせめてもの救いだ。

秀美のパート勤めが始まったのは父の初七日法要の次の日からだ。母と派手なバトルを交えた後、ぷいっと出ると別人になって帰って来た。化粧っ気のない顔にバッサリ切った髪。パートの仕事が決まったからだと。

「店長が言うのよ。食べ物屋だから、髪も爪も短く、化粧の匂いはさせない。店長って言っても小さな揚げ物屋。初対面なのに注文多過ぎよね。あたし化粧しないと別人になりますって言ったら、ここはコロッケを買いに来る所で、あんたを買いに来る所じゃないって。私のこと、あんた、あんたって失礼な人!だから美容院行って、髪切って、化粧落して、もう一回店に行ったら、店長きょとんとして、その方が可愛いですだって、人妻に可愛いはないわよね」

翌日から秀美は生き生きとして出掛けた。

日中は静かになったが、仕事がない俺には毎日楽しそうに出掛ける秀美を見るのは耐え難かった。

そんな中、妻に男の気配を感じた時は、怒りよりもこれで別れられるとほっとした。

俺は妻の様子が見たくなった。静かに寝返りを打ち、目だけで妻を探す。綺麗に畳まれた蒲団の横で、スーツケースに何かを押し込んでいる。頭にはおかしな帽子を被っている。頭のてっぺんにでっかいボンボンが付いて両脇に耳垂れ、そこから長く伸びた紐の先に、またボンボンが付いている。村の外れで炭焼きをしていた祖父の帽子に似ている。

浜田屋に出てから秀美は変わった。髪、被服、顔付きまで。浜田屋が変えたのだ。

だが、俺は男の背景が引っ掛かる。浜田屋の大黒柱を引っこ抜こうとしているのだ。いったいどんな騒ぎになるのか。だが、俺が心配することではない。とにかく出て行ってくれれば、母との言い合いも、仕事がない惨めさも、売れ残りのコロッケからも解放される。何もかもなくなるのだ。

俺は妙にウキウキしてきた。籠の中で出たい、出たいと必死にもがえていた小鳥が、ようやく探した出口を開放してあげているような、何だかいいことをしているような気持ちになって、ふと声を掛けた。

「決めたのか?」

薄暗い中に秀美の目が見開いた。が「あら、起こしちゃった?」と、けろりとしたものだ。

「声かけてくれていいのに……」

「駆け落ちのようにして出て行くのに、声かけて挨拶はないでしょ」

予想は的中だ。だが駆け落ちのようにとは、これは駆け落ちではないのか。

「挨拶して出て行く駆け落ちもいいだろう」

応揚な口を効いていながら、腹の中では駆け落ち相手を気にし、その後の己の身を案じ始めていた。村の人の噂好きは男女の話になると白熱する。妻が駆け落ちしたとなると、夫の間抜け具合まで噂になりそうだ。

それにしても、秀美のあっけらかんとした態度はどうだ。まるで旅行にでも出掛ける朝といった感じだ。秀美はパンパンに膨らんで閉め難くなったスーツケースのチャックを行きつ戻りつさせながら「挨拶して出て行く駆け落ちがあるわけないでしょ。黙って出るのはあんたのためよ。嘘付くの下手だから、知らなければ本当に知らないで通せるでしょ」

「そりゃ、どうも、気を遣わせて……」

「別に、あっちも、いちいち説明していたら面倒くさいし、ここは駆け落ちっていうふうにするのが一番いいってことになったのよ」

「一番いいって、駆け落ちするんだもの後々問題山積だろう。妻子に爺婆、都会から戻った弟は仕事もできないと聞いている」

「大丈夫、弟は奥さんに孕ませる元気ある。今、四人目が腹にいる。それを収集付けられない店長は私と駆け落ちしたということで後を丸く治めようとしてる。爺ちゃん婆ちゃんは三日前に施設に入った。生臭いのは嫌だって。落ち着いたら迎えに行く。女々しいのよ、あの人・だから傍にいてあげないと。私もここではお邪魔虫だし、丁度よかったのよ」

浜田屋はどういうことになっているのだ。それにしても誰か傍にいないとと言っていた秀美が、傍にいてあげないとは……。

薄暗闇の中で話していたはずが、辺りが明るくなってきている。

「あっ、まずい、夜明け前って約束なの」

秀美が慌てて立ち上がった。

「送るよ、約束の場所はどこ?」

「駆け落ちを後押ししてくれるとは、よっぽど出したかったんだ」

秀美の言葉を無視しパジャマの上にダウンを着るとスーツケースを引ったくるように外に出た。ツーンと引き締まった空気が肌を刺して来た。辺り一面に霜が降りている。今年最初の霜だ。

車のドアー開閉音を最小限に乗り込んだが中古のプレオのエンジンは賑やかだった。

一階で寝ている母を起こしたかと、一瞬耳を澄ます。秀美は両手を太ももの間に差し入れ、身体を丸めて言った。

「気付いても起きて来ないよ。お義母さんには昨日の夜、挨拶したもの」

「挨拶した? 俺じゃなくておふくろに」

「だからあんたは知らない方がいいと思ったから。それにお義母さんの方が遥かに多く喋っていたし。そしたらお義母さん、息子が一緒に出ないのは、嫁は何度でも取り換えられるが、親は変えられないことを知っているからだって。あんた、再婚も大変だね」

なんと返事をしていいのかわからなった。

「信頼できるんだろうなあ」

「何が?」

「嫁さんを譲り渡すんだから、信頼できる男でなければ困るだろう」

「大丈夫だよ。女々しい男だから、でももう、女々しいって言うの止めた。頼りになる人って思わせるのも女の仕事だよね」

心持まで変わった。

約束だという場所に、それらしい人も車も見当たらない。来ないということはないのか。このまま浜田屋が来なかったらどうする。連れ戻すのか、どうする、どうする頭の中で自問自答していると、答えが出る前に国道から軽トラックが農道に下がって来るのが見えた。

「あっ、あれだ。ここでいい」秀美は嬉々として車から降りた。軽トラックで駆け落ち?

「これまで、傍にいてくれてありがとね」

おかしな挨拶だ。俺は返す言葉がみつからなかった。「じゃな!」とだけ言うと、そのまま車を出した。何度もバックミラー超しに秀美を見た。これで良かったのだろうか、これで良かったのか? まさかこの思いは想定外だった。         了

作品種類
雑誌掲載作品
修了制作 最優秀賞受賞作品
作品ジャンル
小説
   

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