受講生の作品

梅香姉

河内 恵津子
総合コース専門コース大学院コース
1期生(2015年度)
性別:女性

第1回東京作家大学修了制作最優秀作品

玄関先でまごついている。『ちょっと出かけてくる』の置き手紙を残したまま二年間だ。さすがに気不味い。が、母が気配を察したらしい。「誰?」居間から顔をのぞかせた。
「よっ!」の一声に、しばらくの無礼を込めたつもりだが、母は「はあー?」と間抜け顔だ。どうやら日焼け後の薄皮が斑に剥けて、髭もじゃの顔は、息子だと判別し難いらしい。不躾な視線を全身に這わせてくる。ようやく「アッ!」と、声が出たかと思うと「梅香、梅香呼んでやらんにゃ」と電話に飛び付いた。 
「母ちゃん、俺、姉ちゃんじゃなくて、晃!」
「んなことぁ、わかっとる」
梅香を姉ちゃんとすんなり言えたことに驚く。
「ゆっくりしてられないから、わざわざ呼ばなくていいよ」
無視だ。昔から僕の声は母の耳を素通りする。やばい、胸奥がチリチリする。
「晃が来た。いきなりだ。真っ黒けだ。お前、会いたがってたろう。早く来い。あいつのことだ、またどっか行っちまう」
母が、冷蔵庫からウーロン茶をペットボトルごと持って来た。この人のこういう煩雑さに救われる。チリチリ胸がゆらゆら揺れ出す。
「まったくお前は。あの娘の結婚式にも出てやらんで、どこ行っとった?」
「アフリカ」
「アフリカ? 何しに?」
「井戸堀り」
「井戸堀り? 人の倍も大学通って井戸掘り」
「倍はかかっていない。七年だもの」
それより、梅香は来るのかと、聞きたかったが声に出せない。弟が姉のことを尋ねても何ら不思議はないのに……。
母が、留守中の家族の話を始める。耳が声を拾い上げてくれない。息堰切って走って来る梅香の足音が聞こえてきそうで落ち着かない。二年も経っているのに、以外に根が深い。
梅香。四ヶ月違いの姉。誕生月が二月と、六月だったおかげで、学年に一年差がついたが双子同然だ。母がどれほど丈夫で、犬のごとく五人の子どもを産んだとしても、四カ月違いはありえない。この差は、どちらかが家の子どもでないという不安材料だった。当然、姉にも同じ思いはあったはずだが、一向に気にする素振りもない。それがイラついた。イライラは梅香をイジメることで晴らした。だが、似るはずはないのに、不都合なことは耳を素通りさせる母そっくりな術を持っていた。
しかし僕のイジメは執拗だ。泣かせるまで続く。梅香を泣かせるのは簡単だった。一言「早く死んじまえ!」で事足りた。俯いたまま足元にポタリポタリと涙を落す。一声も出さずに泣くのだ。その瞬間、僕の勝利の証でもあるのだが、後味は悪い。
姉が中学になる年、両親が重い口を開いた。
「十二年前、木戸口の梅の木の下で赤ん坊を拾った。声がれするほど泣いていた。抱き上げたら梅の花の匂いがした。だから梅香と名付けた。以上」
何年も悩まされたことが、こんなに簡単に片付けられた事に納得いかなかった。僕はねちねちと燻り続けた。だが父は、俺が拾ったものに文句あるかと、聞く耳を持たない。
その間、梅香の膝の上の握りこぶしに、ポタリポタリが何度も落ちた。見慣れた涙なのに見ているのが辛いと思ったのは始めてだった。たぶん梅香は、赤ん坊の時、一生分の泣き声を使ってしまったのだ。つと、胸に下りてきた妙な悟りは僕の胸を複雑にした。 
父の「解散!」の声で、廊下に出されると、梅香がこっそりと僕に言った。
「中学出るまで待って、そしたら家出る。晃の母ちゃんを取ったの私だから、何でも言うこと聞いてあげたいけど、死ぬことはできない。父ちゃんと母ちゃんに拾われて貰った命だから、自分から捨てることできない」と。
何かが、ガラガラと音を立てて崩れた。後は説明の付かない感情がぱんぱんに膨らんで、鼻水と涙でぐちゃぐちゃになり、大声で泣きじゃくるという無様なものだった。
以来、僕の中で梅香の立ち位置が変わった。中学二年辺りから、梅香への思いは、心に幾重にも蓋をしなければならないものに変わった。相変わらず言い合いも、菓子の取り合いもしたが、そこに梅香がいるだけで、僕は満たされていた。その後一人ひとり順番に、兄弟が家を巣立って行くのを横目で見ながら、僕はのらりくらりと、七年間も大学に通い家にいた。父が梅香だけは、この家を出る時は嫁に行く時だと、許さなかったからだ。
姉が二十五歳の時、結婚話が舞い込んだ。生涯結婚する気はないと言う梅香に、父は一人で生きるのは寂しいことだと言うと、一人ではない、晃がいると言った。あの日、ずっ―と傍にいると僕が約束させたのだ。
ある日、僕は父に言われた。自分を狭い処に押し込めるな、人生を縮こまって生きるな、梅香を不幸にする気か、僕はどういう意味かと尋ねると、自分の胸に聞いてみろと、返された。それを無視できるほど強くはなかった。 
数日後、『ちょっと……』の置き手紙を残し、世界ボランティア協会の友人を訪ねた。
「お前が出て行った日、梅香が大泣きした。約束したのに、大嘘付きの馬鹿野郎だって、あの子の大泣きは、父さんも私もびっくりした。で、何、約束したんだ?」
「子どもの頃の話だ。もう時効だよ」
「そうか。子どもってば、梅香の子どもの話したっけ?」
話したっけもないものだ。これで三度目だ。「女の子なのに、あきらって名前付けて、叔父さんと同じ名前じゃ変だって言ったんだが、父さんが、それもいいだろうって、許さん、許さんの頑固爺、珍しいこともあるもんだ。お前に似ずに可愛いんだ」
母の嬉しそうな顔が心に痛い。アフリカで、深い井戸掘って、何もかも捨てて来たはずなのに、次はどこに捨てに行けばいいんだろう。
で、梅香は来るの? 聞きたいのに聞けない。   

作品種類
雑誌掲載作品
修了制作 最優秀賞受賞作品
作品ジャンル
小説
   

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