日本放送作家協会主催 作家養成スクール
塗料の匂い、シンナーの匂い、試験機が
まわる音。津元良樹は塗料メーカーの技術者である。社員二十名ほどの会社であるが、技術力が高く演劇舞台の装飾では定評がある。
消防法が変わって舞台の塗料は油性ペイントが禁止され、全て水性ペイントになった。
天才肌の舞台監督、滝澤が昨日も研究室に乗り込んできた。滝澤が求めている紅色が出ない。深くて輝く色は相反する要素である。油性で出る色がどうして出せない技術者失格だと口汚くののしられた。このところ良樹は深夜まで研究室にいて、まともに睡眠がとれていない。
妻のみなみは保母。二人は三十歳で結婚して十年になるが子宝に恵まれない。
夫婦の決め事がある。仕事で悩んでいるな、と片方が感じた時、外の食事に誘う。隠れ家「浜村」で、二人の出身地の酒「信夫川」を黙って飲む。飲み終わると、悩んでいる方の愚痴を聴く。先月は、みなみの保育園での悩みを良樹が訊いた。
「そんなに難しい色なの、社長さんはなんて」
「滝澤さんがへそ曲げたら、売上にひびくから、頼むって」良樹は酒のおかわりを頼んだ。
「今までも滝澤さんの無理難題を聞いて、新しい塗料開発して来たんでしょう」
「今度ばかりは、難しい」
みなみはお猪口を置いて、
「私、子供あきらめていないから」
良樹は注ごうとした醤油を倒してしまった。店員がおしぼりを持って飛んでくる。
刺身のつまが茶色に染まった。刺身皿の模様の色が変わった。見ていた良樹の頭の中に稲妻が走った。ここ何日も、もやもやしていたものが弾けた。
「みなみ、ごめん、今から研究室に行く、
すぐに実験したいんだ」
良樹は徹夜で実験をした。滝澤さんが求めている色ではないかも知れないが、水性で出せる最高の色だ。これで合格をもらえなかったら、あきらめようと良樹は思った。
色々な材質に塗装したものを、滝澤に見せた。滝澤は「この色だ」と喜んだ。
新塗料は深輝紅色と登録された。(了)
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