日本放送作家協会主催 作家養成スクール
「ガセに決まってんだろ。バカだろ、お前」
細いけもの道しかない山道を歩き続けて、疲れもたまっていた俺は、悪態をついた。
「それでも確かめたいって言ったら、つきあうって言ったバカは、おまえだろーが」
悪態に悪態が返ってきた。しかも間違っていない。おかげでこんな目に合っている。
酒の勢いは本当に怖い。重くなるいっぽうの足を、何とか前に出しつつ、俺は心の中で自分に悪態をつき続けた。やめときゃよかった。
発端は、呑家・百薬って店での常連同士の与太話だ。地元ではハイキングに最適とかで、人気のある低山のこと。そのどこかに秘密の温泉が湧いているという。つかれば不治の病が治るとか、ありがちで陳腐なおまけつき。
くだらないが、酔っぱらいたちの肴にはちょうどよく、思いのほか盛り上がった。
結果、探しに行こうぜと相成ったのだ。ふたを開ければ、こいつと俺の二人だけ。せめて女の子の一人でもいればな。うんざりだ。
「おい、いい加減帰ろうぜ。日も暮れるし。山はあぶねーんだよ。ふもとの銭湯行こうぜ」
はるか前を歩いていたはずの奴の背中が、目の前にあってぶつかりそうになった。
「なんだよ、急に」「見ろよ」
奴の指さす方を見ると、白い霧のようなものが見える。嘘だろ。まさか、湯気か?
こんこんと湯が沸いている泉に、こわごわと手を突っ込んでみる。温度を確かめた俺たちは、無言で服を脱いだ。ぷはーっ。
湯につかってこれを言うとストレス物質がより減るとか、どうでもいいうんちくを冗舌に語るくらい、俺は上機嫌だった。奴もうれしそうだ。
気づけば、薄闇に白い猫爪月が浮かぶ。奴は黒い盃を取り出すと、温泉をひとすくい。そこに月を映した。風流なのは結構だが、下山しないと遭難する。そう声をかけようとしたら、「飲めよ」と盃をこちらに押しつけるので、仕方なく口にした。酒、だった。
朝まで飲んだ。山から戻った記憶はない。
それから奴に会うことはなく、皆、奴を知らないと言った。百薬の店のマスターだけが、「新しい盃ができたら、また来ますよ」と、訳知り顔で呟いて黒い盃に酒を注いだ。
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