受講生の作品

靴下の穴とカレーパン

馬場 泰光
総合コース専門コース大学院コース
1期生(2015年度)
性別:男性

第3回東京作家大学修了制作最優秀作品

健一は、足の人差し指が長かった。
それで、よく靴下に穴があいた。
子供の頃、一度、母の洋子に訊いた事があった。
「お父さんもお母さんも靴下に穴があかないのに、どうして僕だけあくの?」
母は笑って、
「さあ。どうしてだろうねぇ」
と言うだけだった。
「それよりも、南さんとこのカレーパン、買ってこようか?」
母の一言は、健一を狂喜させた。
南さんというのは「ミナミベーカリー」という近所のパン屋のことで、健一はここのパンをとても好んだ。
メロンパン、あんパン、クロワッサン。フランスパンを使った野菜とハムとチーズのサンドイッチ、オニオンベーコンパン……。どれもこれも美味しかったが、健一はここのカレーパンがとりわけ大好きだった。
パン生地の甘さとカレーの程よい辛さ。カレーの中には余程珍しいスパイスが入っているらしく、舌を心地良く刺激して咽喉の奥にパンが消えた後も、鼻腔に残った香りが、長く健一を楽しませた。
「うん、行こう!」
「一寸待って、お化粧するから」
健一は身支度をする母の袖を引っ張る様に、ミナミベーカリーへと向かった。
ミナミベーカリーに行くと、いつも通り店主の南さんというおじさんが愛想良く親子を迎えてくれた。
「坊や、いつも有難う。カレーパン一個サービスしとくよ」
「有難う、おじさん」
「いつもすみません」
洋子がそばで言う。そこはかとなく温かい空気が流れた。
おじさんの優しい笑顔とパン屋独特の甘い匂い。そしてカレーパンの味は、健一の幼時の幸せな記憶として、長く残った。

さて……。
健一が自分の「特殊な能力」に気付いたのは、中学2年生、13歳の時だった。
健一は痩せて小柄でおとなしい性格だったせいか、学校で良くいじめられた。
中でも大助といういじめっ子のイジメが何よりきつかった。
ある時は、鉛筆の芯を折られた。
又ある時はすれ違いざま、いきなり殴られた。
トイレに呼び出されて、手で便器を洗えと命じられ、仕方なく便器に指を突っ込むと、
「汚ねえ、コイツ、手で便所掃除しやがった。みんなに言いふらしてやろう」
自分で強制したくせに、そんな事を言った。
こんな目にあっても、弱い健一は、ヘラヘラしている以外になかった。
いじめっ子の理不尽さは言うに及ばず、それをいかんともしがたい自分の不甲斐なさにも腹が立ち、濃縮された怒りが健一の心中に蟠った。
「大助なんか、死ね!死ね!死ね!」
下校途中の河原で、周囲に誰もいないのを確認してから、健一は叫んだ。
すると3日後、大助が死んだ。
川遊びをしていて流され、溺死したのだ。
健一は内心ホっとした。と同時に、自分の呪詛の言葉が現実になった事に、妙な後ろめたさも感じた。しかし、自分が殺した訳じゃなし、偶々だろうと思った。
やがて大学生になると、健一にもガールフレンドが出来た。カズミちゃんという同級生で、エクボの可愛い娘だった。
二人は映画を観たり、遊園地に行ったり、若いカップルがやる事を良くやった。
好きな女性と過ごす時間が、こんなに幸せなのだという事を健一は初めて知った。
力也という男がその幸せを奪った。
彼は二人の先輩の大学院生で、大学の実習の助手として来て、二人と知り合った。
カズミちゃんは、この年上で理知的な雰囲気を持つ男に、急速に傾いていった。
「私、力也さんと結婚しようと思うの」
カズミちゃんが健一にこう言ったのは江ノ島での事だった。
幾度目かのデートで、初めて江ノ島を訪れた二人は、碧く澄んだ海と空と潮風に、ロマンチックな雰囲気に成った。健一が思い切って、カズミちゃんを抱きしめようとした時、この台詞がいきなり飛び出したのである。
健一は狼狽した。訊けば、二人はもう深い仲だという。
一人家路を辿る途中、健一は又しても、河原で叫んだ。
「力也なんか、死ね!死ね!死ね!」
3日後、力也は車に轢かれて、呆気なく死んだ。
健一の脳裡に、中学生の頃の記憶が蘇った。
「俺が念ずると、人が死ぬのか……」
恐ろしくもあったが、うっすらとした悦びも感じた。イヤな奴を、自分は消す事が出来る。この事が健一の心にゆとりをもたらした。
以後、健一はイヤな人物に遭遇すると、とにかく我慢強く相手を受け入れようとした。我慢して我慢して、我慢の限界に達した時は、河原で叫んだ。勤め先の上司や取引先の課長が、死んでいった。
こうしてイヤな奴は排除出来ても、出世は出来なかった。同期入社の連中が皆主任に成っても、健一だけはヒラの侭だった。やがて後輩にすら地位を追い抜かれると、健一は会社勤めが厭になり、30代半ばで退職して実家に戻った。しかしなかなか再就職先がみつからなかった。
「まだ転職先が見つからんのか」
父の修が、怒った様に言う。
この父とは、健一が子供の頃から仲が悪かった。
「俺だって、頑張ってるんだ。もう一寸待ってよ」
「無駄飯食いめが」
「ねえ、父さん。俺、コンビニ継いじゃあ駄目かなあ?」
修は、家の近所でコンビニエンスストアを経営していた。
「お前が、あのコンビニを?馬鹿言うな。会社の仕事もロクに勤まらなかったお前にコンビニ経営なんぞ出来る訳がない」
けんもほろろに断られた。
しかしながら、それからひと月を経ても、再就職はどうにもままならなかった。
「父さん、せめて僕をコンビニの店員として雇ってよ」
「人手は足りているから要らん。それから、後継者の話だが、バイトリーダーの木村君にやって貰う事にした。若いが、しっかりした好青年だ。何処かの誰かさんとは大違いでな」
怒りに顔を真っ赤に染めて、健一は外へ飛び出した。そして河原へ向かい、
「俺の親父なんか、死ね!死ね!死ね!」
例の如く三回叫んだ。
叫んでから、流石に苦い後悔が込み上げてきた。
いくらなんでも父親を呪詛調伏して抹殺しようとは、人としてひどすぎる。だが、これは御芝居の切符なぞと違って、キャンセルの仕方が判らない。
沈む気持ちを抱えて、足は自然とミナミベーカリーへと向かった。
南さんは少し老けたけれど、相変わらずカレーパンの味は変わらない。買いたてのカレーパンをその場で頬張ると、30数年前の幸せな子供時代に、一気に戻った気がした。
「暫く見かけなかったけど、実家出てたの?」
南さんが訊く。
「ええ。会社の寮にいたので。でも会社辞めて又戻って来たんです」
「じゃあ、又時々、うちのパン食べてくれるかな?」
相変わらず優しい微笑を湛えた南さんの顔を見ていたら、健一は不覚にも泣きそうに成った。
「又、カレーパン、買いにきますよ」
健一は泣き顔を悟られまいと無理に笑って、店を出た。

3日後……。
修は死ななかった。コンビニの夜勤明けで帰宅し、すぐ布団に入ると、鼾をかいた。持病一つ無い健康体は死神を寄せ付けなかったのかと、健一は思った。そして、死ななくてよかった、と、心底ホッとした。
「父さんが寝ている間に家を出てゆくよ」
健一は荷物を纏めると洋子に言った。
「何とか一人で暮らして頑張ってみる」
「そう。落ち着く先が決まったら、連絡頂戴」
「今度こそ立派な男に成ってやるよ!」
元気良く宣言して家を出た。
駅へ向かう途中、ミナミベーカリーでカレーパンを買おうかと思ったが、買わずに店の前を通り過ぎた。南さんの笑顔で里心がついてはまずいからである。そのまま電車に乗って、町を出た。
その少し後。
ミナミベーカリーでは、主人の南さんが突然死して、大騒ぎとなった。カレーパンを焼いていて突然心臓の発作を起こし、救急車が到着した時には、既に事切れていた。
南さんは足の人差し指が長くて、はいている靴下には穴があいていたが、健一はそんな事を知る由もない。
そして、洋子が修と結婚する直前迄、南さんと交際していた事も、当然知らない。
健一の、
「俺の親父なんか、死ね!死ね!死ね!」
という呪詛の言葉を、死神は正確に聞き届けたものとみえる。

作品種類
雑誌掲載作品
修了制作 最優秀賞受賞作品
作品ジャンル
小説
   

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