日本放送作家協会主催 作家養成スクール
満月の夜。都会の片隅にひっそりとたたずむバー。紫がかった古い木戸に魅かれ、僕は足を踏み入れた。くすんだランプの光に照らされた店内は、まるで十九世紀のロンドンのようだ。
「お店の雰囲気が、お酒をさらにおいしくしてくれそうですね。ポワロがリキュールでも飲んでいそうだ」
僕の言葉にマスターがほほ笑む。客は僕だけ……と思ったら、隅の暗がりに、ゆで卵に髭の生えたような紳士がひとり座っていた。
「ところで、よく映画の中でポワロが飲んでいる緑色のお酒は何でしょうね」
その紳士がこちらを振り返って言った。
「ああ、あれ。僕も気になってました」
僕は思わず声をはりあげた。美味しそうな料理のあとで、ポワロはしばしばその緑色の液体を一気にあおる。それが妙に羨ましく見えるのだ。
「クレーム・ド・マントですよ」
マスターがさらりと言った。
「薄荷味のリキュールです。食後の口臭防止に飲んでいるのでしょう」
「へえ、さすがマスター」
僕が褒めると、片隅の紳士が言った。
「口臭防止?じゃあ、あまり美味しくはなさそうだなあ」
マスターは穏やかにほほ笑んだ。
「甘くて美味しいですよ。デザートの役割もあるのだと思います。ポワロって超甘党なんですよ。好物はお酒よりも、チョコレート飲料とブリオッシュ」
へええ、と僕たちは声をあわせる。試しにどうですか?と言われ、会ったばかりの紳士と一緒にクレーム・ド・マントをあおる。
「さて、そろそろ私はお暇しましょう」
おもむろに紳士は立ち上がり、褐色の帽子をかぶると、そのつばを軽く持ち上げて僕に会釈した。
「エルキュール・ポワロに似ているという、せっかくの魔法が解けないうちにね」
一刻前に出会ったばかり、ほんの少しの時間を共有しただけの僕たちは、ささやかな同じ魔法を分けあって、満月の下に別れた。
渋谷本校
横浜校
大宮校