受講生の作品

夏の月

浅見きく江
大学院コース
3期生(2017年度)
性別:女性

第5回東京作家大学修了制作最優秀作品

「まあ、お稲荷さん? ここで今、いただいてもいいかしら?」

思ってもいなかった声を女が上げたので、安次はかえって居心地が悪くなった。

馴染みというには程遠い客だ。

三月ほど前、同業の集まりの後で誘われたのが初めてだった。そのときの女が気に入った、というより妙に気になっていた。だが結局それっきりだった。

今日所用で遠出をした帰り、子供に土産のつもりで稲荷寿しを買った。その後、女房が子供を連れて姉の家に泊りがけで出掛けたのを思い出し、ふとここに足が向いたのだ。

御一新で江戸が東京に変わって十七年、安次は今年四十二だ。六年前に左官屋の店を深川区今川町に構えて職人が四人、仕事は固いことで通っている。

だが安次にとって遊びといったら若い頃から賭け事、つまりは博奕と決まっていた。親方と呼ばれるようになって、人前では昔を忘れた顔でいる分、余計に面白かった。

ところが去年の暮から急に警察の取締が厳しくなり、年明け早々に名の知れた博徒の親分が片っ端から牢屋にぶち込まれて五年から七年の懲役、過料は三百円とか四百円だという。客を仕切っていた乾児たちも揃って検挙され、安次が秘かに出入りしていた賭場は一つ残らず消えてしまった。

「窓を開けてもいいかしら?」

安次の羽織を脱がせながら、女が言った。

「窓? そんなに暑くはないがね」

「ええ。でも、ちょうどお月さまが見える時分ですから」

女は壁際の柱に掛けてあった暦をはずして来て、日付を指差した。

「ああ、今日は旧暦の十三日か。なるほど、そこからなら、見えそうだな」

灯りのついた町並みの屋根の上に、もう月が出ているらしい。

「うれしい。久しぶりに本式の夏のお月見」

稲荷寿しの包みを開けて、膳の小皿に安次の分を取りわけながら、女が言う。

「なんだね、その本式の月見っていうのは?」

「あら、夏のお月見には、お団子の代わりにお稲荷さんを食べるものでしょう?」

「へええ、そいつは初耳だなあ。おまえさん、国はどこだい?」

女は答えない。だが江戸生まれの士族の出と、初めから見当が付いていた。

「いい加減なことを、もっともらしく吹き込むやつがいるからな、気をつけなよ」

「いいえ、嘘やでたらめを教えるような人じゃ、ありません」

むきになってこんなことを言わせる男が、この女にはいるのか、面白くもねえ、と思っている自分に、安次は少しばかり驚いた。

「ま、それならそういうことで、いいさ。おあがりよ、好物なんだろう?」

すると女は、竹皮の上に並んだ小さな稲荷寿しを左手で一つ摘むと、その場でいかにもうまそうに平らげ、さらに二つ目を摘んで、そのまま窓際に行って座った。

「いいお月さまだこと」

安次の中で花火のようなものが弾けた。

その晩、安次は本所の旗本屋敷に入った後で、途方に暮れていた。

蕎麦屋に寄る暇を惜しんで、途中で買った稲荷寿しで腹ごしらえをするつもりだった。

賭場になっている中間部屋に行けば蕎麦も頼めるしお茶も出る。だが安次はあんなところで物を食う気にはならない。もともと盆茣蓙の前に座って「丁、半」の声を聞いた途端に腹の減ったのなど忘れてしまう質だ。だがそれだと長丁場は持たない。憑きだってすぐに逃げる。勝負は体力だと思っている。

しかし困ったのは、買ってきた稲荷寿司を何処で食うか、だった。

困り果てた挙げ句、念の為に、いつも固く閉まっている中間部屋のある長屋とお屋敷の庭を隔てる木戸をそっと押してみた。すると、戸は音もなく開いたのだ。

恐る恐る入り込むと、月明かりの下に見事なお庭が広がっていた。だが、よく見ると庭はたいそう荒れている。築山と泉水の間に植わっている松や楓の枝が、みっともないほど伸びているし、池の周りは草茫々だ。

屋敷の殿様は将軍のお供で二度目の長州征伐とやらに出かけているという。その仕度にずいぶんと物入りだったらしい。お庭の手入れどころではないのだろう。

どこか腰を下ろすのに手頃な石でもないかと見回したが、あいにくそんな都合のいいものはなかった。こうなったら立ったまま頬張るしかない。

「腹が減っては戦ができねえってか、よく云ったもんだぜ。やっ、なんだ? こりゃ」

普段、屋台店で買う稲荷寿しは大人の握りこぶしほどある。二ツも食えば、すきっ腹でも充分に足りる。ところが、両国橋の袂で稲荷寿し売りから買った竹皮の中には、やけに上品なやつが五つ並んでいた。女や子供の夜食に良さそうな大きさで、中の飯より包んでいる油揚げの方が勝っている。

「ちぇっ、これじゃ、ほんの一時しのぎだ。ま、ないよりましか」

月を眺めながら、二つ目を口に入れた時だった。

「何をしておるのじゃ?」

足元で声がしたから安次は飛び上がった。寿しを頬張ったまま下を見ると、禿(かむろ)髪の人形みたいな生き物が、じっと安次を見上げている。四つか五つか、ふっくらした顔立ちの女の子だ。白っぽい着物は絹物の寝間着らしい。

「お、お月見を、しておりましたんで」

口の中のものを無理に呑みこんで、思わず丁寧な言葉が出た。

「お月見?」

「へえ。で、お、お姫(ひい)さまは、ここで、何をしておいでなので?」

「お玉を、探しておる」

「探して? お付きのお女中が、お側にいなかったのでございますか?」

小さい姫は、こっくりと頷いた。目を覚ましたら傍にいるはずの者がいない。それで庭まで探しに出たのか。木戸の鍵を外したのはその女中に違いない。家来衆も留守なのをいいことに、ここぞと羽を伸ばすとは、なんとも不届きな女だ。

「それは、お団子か?」

気が付くと、姫は安次が手にしている包みを、背伸びをして覗きこんでいる。

「これは、稲荷寿しといいまして、夏の月見には必ず、団子の代わりに食べるものでございます。一つ、召し上がってみますか?」

姫は、大きく頷きながら目を輝かした。

膝を着いた安次が稲荷の包を差し出すと、姫はすぐに左手を伸ばし、ぎごちなく指を広げて一つ握ると、迷わずかぶりつくようにして、もぐもぐとやった。気に入ったらしい。たちまち平らげて、また安次を見た。

「もう一つ、上がりますか?」

「うん。……でも、よいのか?」

「それでは、仲良くあっしと一つずつ、お月さまを眺めながら」

姫はコクンと頷くとまた左手で二つ目を握った。それからくるりと向きを変えて安次の横に並ぶと、お稲荷を口に入れる前に月を見上げて、声を張り上げた。

「よいお月さまじゃのう」

「ああ、いいお月さまでございますねえ」

二人が寿司を食べ終わった時、庭の奥の方からバタバタと足音がした。

「ひ、姫さま」

取り乱した声と一緒に、若い女が息を切らせて駆け寄って来た。

女中と安次は姫を挟んで激しく言い争い、しばらく睨み合ったが、お互いに不作法を認め口外しないことで、ようやく決着が着いた。

女中に連れられて姫が庭の奥に歩き出したとき、安次は思わず声を掛けた。

「姫さん、ちょっとお待ちを」

右手を女中に握られたまま振り返った姫の前に膝をつき、安次は懐から手拭いを出してその小さな左手を拭った。稲荷寿司を握ったのだもの、油揚げの汁でギトギトのはずと、さっきから気になっていたのだ。

姫は安次の顔を見てニッと笑ったが、急に恥ずかしそうな顔になり、女中の手を振り払うと一人で庭の奥に走り去った。

結局その晩、安次は賭場には寄らずに月を見ながら長屋に帰ったのだ。

ご一新で徳川家が静岡に移されたとき、姫の一家は東京に残った。だがじきに、新政府に出仕しない旗本の屋敷はことごとく取り壊され、その時分には町人の数もぐんと減って、賑やかだった江戸の町は荒れて寂れた。

いっとき、安次は中間だった男を探し出して姫の名を聞き出すことまでした。けれど少しずつ江戸が東京になって行くに連れて、左官の仕事がめっぽう忙しくなり、いつしか姫の名も忘れた。

「そう言えば、昔、わたしもお稲荷さんで夏の月見をしたような気がするよ」

稲荷寿しを一つ摘んで、安次は窓辺にいる女の横に行って座った。

十三夜の月が、重なった屋根の向こうに広がる洲崎の海を照らしている。

寿しを食い終えた安次は懐から出した手拭いで自分の指を拭き、女の左手を引き寄せてその指をゆっくりと拭った。

安次を見つめていた女の眼が大きくなった。

三月前に会った時から気にかかっていたのは女の呼び名が「いさ」だったからだろう。姫の名は「伊勢」というのだ。

「ああ、いいお月さんだ。お月さんはいつ見ても変わらないね」

どうやら俺は、博奕より危ないものに捕まったかも知れない、と安次は思っていた。

作品種類
ラジオ放送作
雑誌掲載作品
修了制作 最優秀賞受賞作品
作品ジャンル
ラジオドラマ
ショートストーリー
小説
エッセイ
   

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