日本放送作家協会主催 作家養成スクール
梅の実がたわわに実っていた。
「悪かったね」
声がして振り返ると、理一が喪服の上着を腕に抱え歩いてきた。
「ううん。お義母さんにはよくしてもらったから」
私は小さく応え、もう一度梅の木を見上げる。雨の降らない六月に、摘まれることの叶わない青い実が、喘ぐようにしがみついていた。
理一が少し離れて立ち止まった。
「そうか、今年の梅酒は飲めないのか」
理一と暮らしていた頃、義母は毎年梅酒を送ってくれた。
「好きだったよな、梅酒」
忘れかけた記憶を摘まみ出すように話すけれど、私の好きだったものは、他にもある。
その声、指の形、笑うと頬に走る皺……。
「おれは子どもの頃、お袋に叱られたことを思い出すな」
梅酒を造るために用意していた氷砂糖を内緒で食べてしまい、ひどく叱られてしまったのだと、懐かしそうに笑った。
「ちょっとわかる」
私の理解に気を良くしたのか、理一は、氷砂糖はどう見ても飴玉だと主張する。
「子どもを誘惑する氷砂糖。でも、普通の砂糖じゃダメなんだってさ」
知っていたけれど、黙って頷いた。
「ゆっくり溶けていく時間が必要だった。なんにでも‥‥」
理一が、「そうだ」と語気を変えた。
「去年の梅酒があるから、持っていく?」
ガラス瓶の底で、青い果実が密かに熟れながら時を待っている。
「いいよ、そんな大事なもの」
「大事なものだから、だよ」
時間が溶かしてくれたものは、なんだろう。どんな記憶も、深い琥珀色へと質量を変える。
「悪かったね」
理一はもう一度、私に言った。
じきに雨も、降り落ちるだろう。
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