日本放送作家協会主催 作家養成スクール
猛暑から一時でも逃れられると喜んだ北の地への出張も東京と変わらない熱気に満ちていた。取引先との会食を終え、もう一杯飲みたいと一人で寄ったバーはトランペットの形に「3W」と書かれた看板で暗号のようだった。
ジャズが流れるカウンター十数席の店内は半分程埋まっていた。奥の席に着いた途端にカウンター内側から突然目の前に人が立ち上がって現れ、その姿に息を呑んだ。
「いらっしゃいませ。何にします?」
「生ビールを」と答えて彼女を目で追った。色白に引詰めた黒髪はゆるいウェーブがかかり、細くしっかりとした眉に切れ上がった目。
私は二十年前に引き戻された。
大学初日、勧誘してきた一つ上の女子の先輩に一目惚れしてジャズ研究会に入った。何も知らない私は色々と教えてもらい、先輩と同じアルトサックスを始めた。度胸が無かった私は想いを伝えることも出来ずに先輩の卒業を見届けた。あの人の面影が重なったのだ。
「ジャズ、好きなんですか」と彼女の問いに答えると話は弾んだ。店名はマスターがサッチモことルイ・アームストロングが好きで、「What a Wonderful World」のWを取ったそうだ。彼女は大学でジャズバンドを組みアルトサックス奏者ということでお互いの熱が上がった。家庭持ちということを隠して。
ラストオーダーになったので何かお勧めをと頼むと、彼女は少し考えて、作り始めた。
シェイカーから茶色味を帯びた赤いカクテルがスノースタイルのグラスに注がれた。「キッス・オブ・ファイヤー。今流れているサッチモの曲にインスパイアされて日本人が発明したんですよ」と細い指で差し出した。
唇に触れる砂糖の甘さと追ってくる甘酸っぱい口当たりに勇気をもらって聞いてみた。
「どこかで一杯飲まない?」
沈黙の返答で撃沈したと覚り、勘定を済ませ恥ずかしさを見せぬように退陣を決めて席を立つと「レシピ」と彼女にメモを渡された。
翌日、帰りの車内でメモに気付き読んでみた。ウォッカ090㎖、スロージン83㎖……。その不自然な分量の数字が電話番号と分かった時は見慣れた風景が窓に広がっていた。
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